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音楽に打ち込んだ青春時代。音楽が繋いだ「人」と「今」

 

 

湊 恭太郎様

卒業:1998年

当時の部活動:吹奏楽部

お世話になった先生:大峠先生、南先生、シスター高橋

ご職業 : 株式会社シンプロ 代表取締役

HP:http://www.spsinpro.co.jp

連絡先:k.minato@spsinpro.co.jp

Q.現在のお仕事について教えてください。

看板の印刷やゴム工業品の会社を経営しています。
百貨店やスーパーなどの商業施設の店内看板や某電鉄の運賃表を制作したり、ゴム工業品の印刷ではゴムメーカー様のマークを印刷しております。
当時から「水と空気以外ならなんでも印刷できる」をモットーに、常に新しい技術を追求し、研究を続けて現在に至ります。
最近ではインクジェットプリンターはもちろん、デジタルサイネージや3Dプリンターを導入いたしました。
神戸、東京、大阪に支店を構え営業しています。

Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?

元々は父親が経営しており、私が後継ぎをしました。
後継ぎに至る経緯なのですが、元々私は吹奏楽部でトランペットを担当していたこともありバンドマンを目指していたんです。
大学時代は本当にバンドとバイトばかりしていて、その中で父親の会社でもバイトをしたりしていました。
父親と一緒に仕事をするとかではなかったのですが、社員さんの元で現場について行ったりしていて、大学3年か4年くらいの時に父親から「将来どうするんや?大学卒業してから何するんや?」というようなこと聞かれました。
私は「バンドマンとしてやっていく。」と結構真剣に言ったんですが「あほか!」と言われましたね。(笑)
「もしそれをやるなら先生の資格を取るなりしろ。」というようなことを言われまして…

そんな話のなかで「うちの会社にくるか?」と父親から提案があったんですけど、その当時父親の会社に興味があったわけでもなかったので悩んでいたんです。
ただ私には当時お付き合いしていた女性がいて、彼女が短大を卒業して私よりも先に働いていたということもあり、だんだん「結婚」ということが視野に入ってきました。
結婚するなら「安定した収入が必要だな」と感じて、バンドは趣味としてやっていくと決めて父親の会社で働くことにしたんです。
(当時付き合っていた女性が今の奥様とのことです。)

Q.実際に働いてみてどうですか?

「社長の息子」として入ったことで、周りの社員さんは接し方が難しかったと思います。
ただ父親の会社において、周りの人からは「社長の息子」という特別扱いはされませんでした。
父親に関しても私の仕事については完全にノータッチでしたし、「社長の息子」ではなく「個人」として見てくれたのでそういう部分は私にとって良かったのだと思います。

苦労した面でいうと、百貨店などに案内板などを施工する会社なので、お店の閉店後に夜な夜な仕事をして「朝までに終わらせないといけない」というようなこともあり、丸二日くらい寝ずに仕事をすることになったときは大変でした。
ただ学生時代に夜勤のバイト経験やバンドで夜に活動をしたりしていたおかげで夜中に働くということにも対応できましたし、学生時代にやってきたアルバイトの経験がいきたと感じた瞬間でもありました。

Q.この仕事のやりがいは?

自分たちが作った物を沢山の人が目にする事だと思います。
百貨店の案内板だったり、電鉄の運賃表だったり…
自分が直接手掛けた仕事がスムーズに進んだり、仕上がりが良かったりするとやはり達成感がありますね。
また自分が作ったものが皆さんの生活の道しるべになっているんだな、と考えたときにとてもやりがいを感じます。

Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?

吹奏楽部の先輩たちからお仕事頂く事があるので高校時代の人とのつながりが仕事にいきてくることがあります。
吹奏楽部ではOBの人たちが出入りされたり、先生との交流もたくさんあったので上下間のつながりがとても強かったように思います。

Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?

中学生の頃まで遡るのですが、周りの人が流行り物などをよく知っていたのでそれについていくのに必死だったように思います。
また当時はバスケがしたくてバスケ部に入部したのですが「自分はできる!」と思って入ったものの、上下関係や基礎練習などに嫌気がさしてしまいバスケ部を辞めてしまいました。
帰宅部になってからはゲームセンター通いでストⅡ(ストリートファイターⅡ)漬けの毎日でしたね。(笑)
中学3年生の時に吹奏楽部の子と仲良くなり、その子がきっかけで吹奏楽部に入部してトランペットを吹くようになりました。
今でも吹奏楽部入部のきっかけとなった友達とはつながっていて、たまに連絡を取り合ったりしています。

他には、高校在学中に1年間休学してイギリス留学をしました。
きっかけは父親からの「イギリスに語学留学に行ってくるか?」という提案でした。
父親の知人がイギリスにいたこともありその提案をされたのですが、当時は吹奏楽が楽しかったこともあって正直あまり乗り気ではなかったんです。
ただ「周りとは違う経験ができるんじゃないか?」と思い、留学に行く決意をしました。
結果として留学に行ったことで英語を話せるようになりましたし、様々な国の様々な文化に触れることができたのでとても貴重な経験を積むことができました。

あとになって父親から「なぜイギリス留学をさせたのか」という話を聞く機会があったのですが、「財産でお金を残すよりも経験を積ませてあげたかった」という狙いがあったようです。
留学が終わって学校に戻った時には留年することになったのですが、先生も生徒も受け入れてくれたので安心しました。

Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?

大学に入ってからはバンドとバイト漬けの日々でした。
活動をしているうちに多方面の方々から「うちのバンドでやってくれへんか?」というような誘いを頂くようになりました。
そこからは様々なバンドでトランペットを吹くようになり、ジャンルも多様で、ファンク、R&B、スカ、ラテン系サルサバンドなどいろいろなバンドで演奏をしていました。
私は特定のバンドに所属をしていたとかではなくて、色々なバンドに参加して演奏をしていたのですが、そんな活動を続けているうちにイベント会場やライブハウスなど、本当に様々な場所で演奏をする機会があり、大学に入ってからはバンド活動ですごく楽しい想いと経験をさせてもらいました。
別にどこかのレーベルに所属したりしているわけでもないし、もちろんプロとかでもないのですがバンドでお金をもらえるようになり、大学時代は常にトランペットと一緒に行動していました。

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

吹奏楽部の夏合宿や、たばちゃんバンドのお手伝い、阪神淡路大震災時の甲子園高校野球入退場の演奏をしたことが特に思い出に残っています。

当時吹奏楽部の夏合宿では「水戦争」というものがあって、これはOBの人たちや南先生を主催としたイベント事なのですが、施設内で「お前たちは包囲されている!!」という放送があったかと思うと唐突に水風船や水鉄砲を使った戦争が始まるんです(笑)
部員たちが水浸しになって、最後はOBの人たちなんかも含めて写真を撮ったりするのですがそういう楽しい思い出もあって吹奏楽部の夏合宿はとても印象に残っています。

たばちゃんバンドのお手伝いというのは、田畑神父様と吹奏楽部顧問の南先生が中心のバンドをお手伝いしていたというものです。
吹奏楽部はOBの方の出入りも多く色々なつながりができました。
たばちゃんバンドでは裏方などのお手伝いをしたり、演奏などもさせてもらっていたのですが、その活動の中で夏休みには五島列島にある田畑神父の実家にお邪魔してバーベキューをしていました。
たばちゃんバンドを通して、先生やその仲間の方々に混ざって雑魚寝をして夜を過ごしたり、とても楽しく活動をしていた記憶があります。

↑たばちゃんバンドでのお写真。
写真中央のサングラスをかけておられるのが南先生
南先生の前方におられるのが湊様
南先生の後方におられるのが油井様

阪神淡路大震災時の甲子園高校野球入退場の演奏については記憶が少し曖昧なのですが、震災が起きるまでは確か警察とか消防とかの音楽隊が入退場の演奏を担当していたと思うんです。
ただ震災が起きたことで警察や消防の人手が足りなくなってしまって、それからは高校生が入退場の演奏を担当するようになったのですが、その一番最初の代で私たちが演奏しました。
吹奏楽部の合同定期演奏会などで県立西宮高等学校の先生とご縁があったりして、仁川代表として私が演奏することになったのですが、甲子園の土を踏むことができたりとてもいい経験をすることができました。

一問一答

Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?

中学受験で学校見学にきたのですが「きれいな学校だな」と感じたのがきっかけで受験しました。

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

先生方が個性的で温かいところだと思います。
高校時代の部活の顧問だった大峠先生の話になるのですが、特別なにか大きな出来事があったわけではないが日頃から親身にお付き合いをしていただきました。
そこには先生と生徒という垣根がいい意味で無かったように思います。
人対人のお付き合いがあって、同窓会などで会っても当時と変わらずいいお付き合いをさせて頂いていました。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

バスケットボール部に入部したいです。
実は中学生の頃にバスケ部を辞めたことは後悔していて、大学でバスケ部に入ったりもしたのですが周りのレベルが高くてついていけなかったんです。
なのでもし今の記憶のまま戻れるのであればバスケットボールがしたいです。

Q. 次のインタビューにつなげる為にどなたかご紹介してください!

維新の会 兵庫県議会議員 北村さとしさん

Q.仁川学院の卒業生の皆様に何かPRしたいことはございますか?

神戸モーニングロータリークラブにゲストとしてお話をして下さる方を募集しております。
ご興味のある方はぜひともご連絡ください!

Q.仕事や趣味で繋がりたい方がいましたら教えてください。

ドラゴンゲートの木戸様(神戸モーニングロータリークラブに所属しており、ゲストで来て頂きたい)

Q.最後に仁川学院学生の皆様にメッセージをお願いします。

若者でしかできない事があるので、勉強も遊びも青春も全力でがんばってください。

インタビューを終えて

吹奏楽やバンド活動のお話をされているときの表情がとても生き生きとされていて、お話をお伺いする中で「本当に楽しい時間を過ごされてきたのだな」と感じました。
バンドマンとしてやっていく夢を断念されたとのことでしたが、決して後ろ向きな様子は感じられず、「今」を楽しみながら人生そのものを謳歌されている印象を受けました。
学生時代の人とのつながりがその時のまま続いていたりなど、当時から素敵なお人柄は変わらないまま今に至っているのだなと感じました。
お仕事のやりがいについてお伺いしたときに「みなさんの生活の道しるべ」という言葉を聞くことができたのですが、誰かのお仕事で今の生活が成り立っていることを感じさせてくれる、そんな気付きを与えてくれたフレーズです。
この度はご多忙の中貴重なお時間をいただき、また取材にご協力いただきありがとうございました。