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国境を越えたサービスを届けて~

 

 

名前:Jerold Takayoshi MIYAUCHI(旧姓:宮内 隆良)様

卒業:1972年3月

当時の部活動:サッカー部・生徒会書記

お世話になった先生:崎浜神父様と数学の田村平次郎先生

ご職業 : 元日本航空

連絡先:jerry_miyauchi@hotmail.com 

Q.現在のお仕事について教えてください。

退職前の仕事は日本航空バンクーバー支店で日本市場のゼネラルマネージャーをしておりました。
仕事内容は政務 ・日系法人企業への営業と日系旅行代理店への営業が主でした。

元々は、エア・カナダとカナディアンパシフィックという 2 つの大きな会社がカナダにあったんですが、日本や香港などのアジアに飛んでるのはカナディアンパシフィックしかなかったんですよ。
日本と行ったり来たりするのに便利な航空会社はカナディアンパシフィックだったので、カナディアンパシフィック航空会社に入社しました。
入社当時は客室乗務員で入社しましたので、成田から香港とか世界各地に飛び回りましたね。

その後、管理職に移り、東京支社と大阪支社と協力して日本からのお客様をカナダに来ていただけるようにカナダの売り込みをしておりました。
それと同時に、日本各地の教育委員会に行きまして、修学旅行の行き先をカナダにしてみませんか?という営業もしていましたね。
それ以降、日本からの中学校・高校の修学旅行でカナダの需要が増えたんです。
今となっては、オーストラリアとニュージーランドとカナダは日本の学生さんたちが修学旅行に行きたがる目的地になってます。

その後は客室乗務員部のマネージャーとして、メニューデザインをしたり乗務員の監督をしていました。
私は機内食のメニューで懐石料理を提案したんですよ。
その為に、京都の料亭の本をたくさん読んで名古屋の食器メーカーさんのところに行って食器を選んだりして勉強してました。
実際にサービスを提供してはみましたが、サービスするのが難しいので、当時のフライトアテンダントの皆様からは不満の声が上がりました。
「なんでこんな難しいものを導入したんですか」って言われたんですけど、お客様には喜んでもらえましたし、今ではどこの航空会社を見てもビジネスクラスで懐石料理っていうのはスタンダードになってるので、導入できたのは本当に良かったです。

その後カナディアン航空のバンクーバー国際空港で、国際線旅客の担当部長として働きました。
当時、バンクーバーから出てた国際的な空港は東京・成田・名古屋も飛んでましたし、台北・香港に飛んでいましたホノルルとかヨーロッパに行く路線もマネジメントしていました。

2006年まで担当してその後、2006年の12月から日本航空に移り、マネージメントをしていました。
日本航空は当時政府専用機のハンドリングを任されておりました。
専用機を利用される皇族、首相、政府関係者を航空自衛隊の方々が運行業務をして専用機を目的地まで運んできます。
自衛隊の航空機はメンテナンスの関係で飛行場に3 日~4 日駐機しているので、整備に来られる整備士やパイロットの方に空港まで送迎するバスをチャーターしたり、空港で皆さんのID を出したりとコーディネートをしていました。

5 年前に退職して今に至ります。
コロナの時は、カナダのパスポート持ってる人は日本に入れなかったんですが、今年から入れるようになったので、日本に帰ったときは西宮北口から宝塚に行く時に仁川学院の棟と十字架を見るのが楽しみです。

 

Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?

カナダに移住してすぐにカナディアンパシフィックに入社しました。
カナダの航空会社で東京に路線を持っているのはここだけでしたので、日本との行き来を考えてカナディアンパシフィックを選びましたね。

大学卒業前に結婚したのですが、その時、妻が日本航空で客室乗務員をしていて海外線を飛んでたんですけど、結婚と同時に伊丹に移って国内線を飛ぶようになったので、その時に何度か日本航空の方とお会いして話をしていくうちにすごく待遇がいいということを聞いて、客室乗務員になった方がいいなと思ったので、目指して行きましたね。

 

 

Q.実際に働いてみてどうですか?

カナディアンパシフィックはとても働きやすくフレンドリーな会社でしたので、苦労はあまりしませんでした。

アジアへ飛ぶ客室乗務員は大体決まってましたので、皆さんとも仲良く過ごすことができましたね。

ベテランの方は、海外線に行って、長距離の路線に乗れるんですけど、新人の場合は国内線やアメリカルートで、そこまで長い距離の路線には乗れないんですよ。
私が新人の時は、日本語がしゃべれるのは貴重な扱いだったので、入社したばかりだったんですけど、日本や香港の路線に乗ることができたのでとてもラッキーでしたね。
バンクーバーから成田まで行く時は向かい風になるので9 時間半ぐらいで到着するんですが逆に成田からバンクーバーに帰ってくるときは追い風になって7~8時間で到着することもあるんですよ。
冬はジェット気流が強くなるのでもっと早く到着します。
勤めてみてこういうことが知れたのも面白かったですね。

1980 年代は当時、大橋巨泉さんがカナダが好きで、テレビでよくカナダのことを取材していただいたんです。
巨泉さんが、春夏秋冬のカナダのいいところをテレビで宣伝してくださったおかげで、 1980 年代は日本のお客様がすごく多くてまさに黄金時代でした。
当時の冬のカナダにスキーに来られるお客様が多くて、特に、バンフに行かれるお客様が多かったんです。
バンフに行かれるお客様はバンクーバーからカルガリーというところまで飛行機を乗り換えて、そこからバンフまでバスで行くので当時はバス会社と提携して、バス自体にフライトナンバーをつけてお客様を運んでました。
色々やることがあって面白かったです。

Q.この仕事のやりがいは?

カナダと日本をつなぐ仕事ですのでとてもやりがいはありました。
特にお客様の喜ぶ顔を見るのがやりがいですね。

皇族の方がいらした時は、バンクーバーからカナダ国内・ヨーロッパに行くまでのフライトを全て手配したんですよ。
各空港の関係者、客室乗務員・パイロット・関係各所に全部の手続きをして、送迎時間等のスケジュールを作って、必要な連絡先を全て記入して何かがあったらここに連絡していただくように手配していたんですよ。

そのおかげで、皇族の方にもすごく喜んでいただいて、家紋がついたお皿をいただきましたね。
今でも大切に保管しています。

仕事のやりがいはやっぱりお客様の喜ぶ顔でしょうね。
「これでいいや」でしたらサービスのクオリティは上がっていきませんので、お客様には常に何か新しいものを提供していくように努めてました。

 

Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?

仁川学院で学んだ事で仕事に生きていることは、寛容で思いやりを持てたことだと思います。

仁川では、神父様や修道士の方とお話することが多かったんです。
私自身はカトリックではないんですけど、カトリックの思いやりや寛容さっていうのは、自分の心の中に入っていきました。
「人に優しくなれる」ということが、とても必要だったと思いますね。
そのおかげで簡単なことですが、電車の中で、お年を召された方が立っていたら席を譲るとか杖をついてらっしゃる方が横断歩道を渡る時にお手伝いをすることが普通にできるようになってました。

佐野君(同級生)と仁川学院に行った時、生徒さんはきちんと挨拶もできるし、「お手伝いしましょうか」という声掛けみたいなことで話しかけてくれて、さすがだなと思いましたね。

仕事してた時に修学旅行で来られる他校の生徒さんと接する機会がありましたが、やはり全然違うなって思うようなところがありました。
仁川学院に通えてよかったと思います。

 

同級生の佐野様との写真(写真左) 

Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?

高校 1 年の時は図書委員だったので、図書室の管理をしていました。
部活は、サッカー部に入部して活動していましたし、あとは生徒会の書記になって体育祭とか文化祭の企画を一挙に私が引き受けてやってましたね。
当時の私の担任の先生が崎浜神父様っていう方だったんですけど、この方は結構厳しかったですね。
ちゃんと話を聞いてくれておかしいことはおかしいんじゃないかをきっちり教えてくださる先生でした。
当時は教会で遊んでたりしてまして「教会は遊ぶところじゃない」って怒られましたね(笑)

Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?

卒業後は進学する予定で、大学はすでに推薦が決まってましたので全然受験勉強してなかったんですよね。
ところが、なぜか推薦試験に落ちてしまって、慌てて受験先を探して近畿大学の商学部に入ったんですよ。
近畿大学商学部に入学しましたが、通学距離がかなりありましたので、結局、2 ヶ月でへたれちゃいましたね。(笑)
母親に「来年もう一度、受け直すから」って言って、自宅で勉強して、翌年甲南大学の経済学部に入学しなおしました。
当時の甲南大学は学風がほんわかしてて、仁川学院に似ているところがあったので良かったです。
在学中に一年休学してカリフォルニアに行きたかったので、サンノゼ州立大学に留学しました。
休学中に留学を始めて、北米で留学生活していくうちに北米の生活が自分に合ってるなっていう風に思いましたね。
最初は英語で苦労したんですけど、それでも 4 ヶ月ぐらいから英語で物事を考えるように変化してきて、コミュニケーションはスムーズにできるようになりました。
妻とも留学中に出会い、お互いに日本を出たかった思いがあって意気投合しました。
移民を考え始めたのはこの頃です。

Q.移民を決意されてからはどのように過ごされていましたか?

留学を終えて甲南大学を卒業してから鉄道会社に入社しようとしたのですが、ここから先、海外に行くことが難しいだろうなっていうことを考えるようになって、入社する 2 ヶ月ぐらい前に入社を断りに行きました。
その後、甲南大学の先輩に頼み込んで、神戸にある貿易会社に拾ってもらいました。
そこで 2 年半働いてたんですが、移住したい思いがありましたので、当時のアメリカの領事館があった三宮に何回か行ってたのですが、断られたんです。
今度は、JICA(ジャイカ)という外務省の外部団体から、カナダに移入したい人向けの説明会があったので、そこに行った後に大使館に申請を出して移住権が通りましたので神戸の貿易会社を退職しました。
カナダに移住するまでに、妻の両親を連れてカリフォルニアとハワイに行ったんです。
妻の両親は私がカナダに移住することを知らなかったので、ハワイから大阪に帰るフライトの中で「カナダに移民します」と思い切って言った瞬間、両親の顔がそれまで笑ってたんですけど一気に落ち込んだのは今でも覚えてますね。
妻の両親には、「1 年に1回は絶対日本に帰します」という約束をした後、自分の両親にも話しました。
妻は、日本航空を 1 月に退社してすぐにカナダに来るということだったので、私は 11 月に行って急いでアパートを探したりしてました。

カナダに住み始めて43 年目ですね。
69 歳なんですけど人生の 2/3 をカナダで過ごしてます。
税金は高いですが、それを除けばとっても生活のしやすい国ですね。(笑)

 

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

印象に残る思い出は体育祭と文化祭です。

生徒会の書記だったので体育祭・文化祭を担当してました。
体育祭の時はプログラムを作って、出し物を何にするのかを先生と話し合ってました。
文化祭は出し物の準備やバンドの演奏や女子コーラスの練習に参加したり、模擬店の配置や体育館でする出し物を何にするのかを友達とアイディアを出し合ったりして2・3日泊まり込みで準備してましたので思い出深いですね。
3年間楽しく過ごさせていただきました。

一問一答

Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?

仁川学院に入学を希望したのは、学風が良かったからです。

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

やはり人々にやさしく接することを教わったことだと思います。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

もう少しボランティア活動をするのではないでしょうか。

Q.仁川学院の卒業生の皆様に何かPRしたいことはございますか?

カナダに来た際は是非、ご連絡ください。

Q.仕事や趣味で繋がりたい方がいましたら教えてください。

南太平洋諸島に興味のある方ですかね。

Q.最後に仁川学院学生の皆様にメッセージをお願いします。

恐れることなく前に進んでください。

インタビューを終えて

お話上手で思わずインタビューということを忘れてしまい、つい聞き入ってしまいました。
当時の航空事業のお話を聞くことができ、面白かったです。特にバンクーバーから成田までの往復時間にここまで差があったのは驚きました。
お話の中で、機内食の懐石料理を提案したエピソードは印象的でした。
料亭の本をたくさん読んで勉強され、現地まで食器をご自身で吟味し、当時は、サービスとして提供することに苦労されたご経験がありながらも今では、当たり前のように懐石料理が機内食として提供されていることを考えると、こうしたお話は大変貴重ですし、何よりもお話を聞けて本当に良かったと思います。
カナダに移住するお話では、学生時代からすでに日本から出て生活したいという思いがあり、一度決めたらやり遂げる宮内様のアクティブさが伝わってきました。
また、日本に帰ってこられた際は、仁川学院の同級生と交流されており、「仁川学院の外観を見るのが楽しみ」と学生生活を懐かしみながら言っておられました。
宮内様、この度はお忙しい中快くインタビューを引き受けて下さりありがとうございました!