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第二の故郷、仁川学院

 

﨑濱 宏美 神父様

勤務期間:1968年4月~1991年3月

教えた部活動:野球部・寮長

連絡先:https://www.seibonokishi.ed.jp/

 

Q.仁川学院をご退職後、どのようにお過ごしでしょうか。

現在は長崎市に住んでおり、仁川学院と同じ修道会が経営している聖母の騎士学園の理事長と校長、また聖母の騎士東長崎幼稚園の園長をしています。

Q.現在の職業に就いたきっかけを教えてください。 

きっかけは親の影響です。

私は五島列島で生まれ育ちました。
そして私の先祖は、約300年前に長崎近郊から信仰を守るために五島列島へ逃げてきました。
私の両親も昔から信仰を大事にしており、男の子と女の子に恵まれたので、3番目は男の子が生まれたら神父、女の子が生まれたらシスターにと考えており、私は小さい頃から「神父になるんだぞ」と言われ育ちましたので、親の言うことは聞かないといけないと思い、修道会に入ったのが最初のきっかけですね。

自分たちの生活よりも何よりも宗教を、信仰を大事にしていた先祖代々の教えを受け継いでいる両親だったので生まれた時から神父になる道は準備してくれていました。
ただ、神父になるのも自由意志でなければ全く意味がないので、いくらでも自分で選択はできる環境にはいました。
ですが、私は来世を信じています。
自分の好きなことやって地獄に行ってしまった、なんて全く意味がないのです。
教えに準じて、神様を信じて生きる私の生涯を捧げる気持ちになり、それで自分の自由意志で神父になる道を選びました。

Q.仁川学院で働いてみてどうでしたか?

仁川学院に入職した頃の47年前に野球部の顧問 兼 監督を5年間していました。
当時の教頭先生から「野球部の顧問をやって欲しい」と言われまして
「とてもじゃないですけど、学生時代に好きで野球をしていただけで、教え方も分からないので、それは難しいです」とお伝えしたんですが…
「急に顧問をする者がいないから顧問してください」と頼まれたのがきっかけです。
実は、私は若い頃はスポーツが大好きで大学の頃まで仲間達と草野球をやっており、私はピッチャーをしたり色々なポジションを守ったりしていてチームもかなり強かったのですが、それを教頭先生が聞きつけてたそうです。

日刊スポーツが鹿児島県にある高校が25 年間、夏の大会で1回戦負けしていることを取り上げた記事を作り、他に連敗の学校がないか調べたら、仁川学院が夏の甲子園 1回戦13 連敗してるじゃないか!!ということで、日刊スポーツの一面使って「近くて遠き甲子園 あ~1回戦ボーイ仁川学院高」という記事で取り上げられました(笑)
その年は、夏の甲子園の1 回戦目にも関わらずテレビ局 が4 局ぐらい集まっていました。
その時にようやく勝てて 14 連敗を免れたという面白いことがありました。
そして、甲子園球場でノックできたという大変貴重な経験をさせていただた経験は私の自慢の1つです(笑)

また、仁川学院には才能豊な子が沢山いるのでもっと勉強をして、その才能を発揮する環境を作ろうということで、当時の校長先生が寮を作ったんです。
20 名の生徒達が寮に入り、私も何かお手伝いをと思い、寮長 兼 野球部の監督として仁川時代をスタートしました。

Q.働いていたころのやりがいを教えてください。

私が仁川学院に入職した時は、高校3年生が5回生で、学校が始まってまだ新しかったので、
中学・高校の男子女子合わせて 300 名もいなかったと記憶しています。
その為、家庭的な雰囲気がありましたし、基本的には仁川学院の生徒達は思いやりのある子たちが多かったです。
女子生徒達も気品があり「カトリックの学校の女子生徒だなぁ」と思っていましたし、非常に誇りにできる生徒達でした。

勉強ができるということも、もちろん大事ですが人としての優しさや温かさなど、内面的なことも非常に大事だと思っています。
そういう内面的な良さも仁川学院の生徒達には十分にあったと感じていました。
仁川学院で務める前までは「都会の上品な学校なんて田舎者の私には合わないんじゃないか」と思ってたのですが、仁川学院に来てから嫌だなとか、来るんじゃなかったなどといったマイナスな気持ちになったこと、一度もありません。
そんな恵まれた日々にやりがいを感じていました。

Q.仁川学院時代に学んだことで、今も生きてることはありますか?

当時の学院長・園田神父と去年亡くなられた西田神父、そして私の3 人で学院訓を作ろうということで
「人は神の似姿である 故に人の尊厳を保ち 神以外の何者も怖るな」そういった学院訓を作りました。
哲学的なことも含めて大変勉強にもなりましたし、園田学院長と西田正神父の3人で、あ~でもないこうでもないと言いながら作り上げたことが「非常に良かったなぁ」と思っています。
今でも各教室にかけてあると思いますので機会があれば見てみてください。

3人で作った学院訓は今でも覚えているくらい生きています。

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

思い出は沢山ありますが、北海道への修学旅行についていった時の思い出が印象深いです。
新幹線で東京まで行って、東京から夜行列車で青森へ、青森から青函連絡船で北海道まで行って、帰ってくるまで 7 泊 8 日です。
行くだけで 2 日かかる長い旅路でしたが、それが非常に良い思い出です。

また、日航機墜落事故の被害者の中に仁川学院の卒業生がいまして、その方のお父様から「仁川学院が好きだったからカトリックの宗教で送ってもらいたいです」と頼まれて、現場まで行ったことがあります。
藤岡高校の体育館に30体くらいのご遺体があり、その中に卒業生のご遺体もありました。
火葬をする前にお祈りをし火葬場までついていきました。
その後、仁川学院のコルベ講堂で葬儀を行ったという出来事があったのですが、それは非常にショックでしたし忘れられない、忘れてはいけない出来事でした。

一問一答

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

仁川学院には、全体的に温かさがある学校だと私は思います。
これは不思議なもので、こうだから温かさ出るとかいう理屈ではなく、総合的にでる雰囲気が温かい雰囲気になっていると思いますし、その雰囲気は生徒数が増えた今でも消えてないと思ってます。
社会に出ても温かさは非常に大事なので、これからもその温かさを守り続けて欲しいです。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

神様のことをちゃんと分かりやすく教えてあげることができたらよかったな、と思うんですね。
あまり勉強をしてなかったので、十分に伝えるということができなかったなぁと思い反省しています。
なので、戻れるとしたら神様の事を分かりやすく生徒たちに教えたいです。

Q.同窓生の皆様にPRしたいことがあればお願いします。

実は柄にもなく、本を4冊程出しています。
内容は私の生まれ育った五島列島のことから今までのこと、いただいた手紙などの事についてです。

また聖母の騎士学園を活性化しよう!と思い、全校生徒で劇をやったことがあるんですが6作くらい作りまして、それを一部まとめた本なども出しています。
いじめや自殺を題材にした本や、子供向けに絵本なども出しているので見てみて下さい。
■Amazonサイト(3冊)
■流太くん物語

Q.繋がりたい方はいますか?
堀尾明生先生(当時の歴史の先生)と繋がりたいです。
最後は奈良県の一条高校の校長先生をされていたと記憶しております。
彼は非常に年齢も近く、色んなことを教えていただきました。
お酒の飲み方も教えていただきました(笑)

Q.最後に仁川学院生の皆様にメッセージをお願いします。

親が子供を想う心と一緒で、神様が私達を大事に想って命をくださったことを意識して命を大事にして欲しいです。
神様は目一杯の愛を持って私達を見守ってくださっているので、それを忘れないでください。
命を大事に生きていたら後悔ないよう生きていけると思いますし、生きているだけでもすごいので、命あることに感謝できるはずです。
是非、命に焦点をあてて生きていって欲しいと思います。

インタビュー終えて

伝説の﨑濱神父様と聞いておりました、ご本人にインタビューできたこと大変有難く思います。
ご紹介くださった小堀様、ありがとうございました。
最後の命のお話は、まさに﨑濱神父様だからこそ出来るお話だと感じました。
インタビュー中に素敵な場面が何度もありましたが、一番印象的だったのは
「仁川は私の第二の故郷です。」と優しい笑顔で仰っていたことです。
仁川学院を離れた今でもそのように仰ってくださったことに感動いたしました。
また、インタビューが終わった後日に仁川学院高等学校同窓会宛てに﨑濱神父さまが出している本4冊とお手紙が同封されていました。
お手紙の内容は達筆な字で激励のお言葉が書かれていました。
中々お手紙をいただく機会が減ってきてたので大変嬉しかったです。
﨑濱神父様、大変お忙しい中貴重なお時間をいただき、また本4冊とお手紙までいただきまして本当にありがとうございました。