本文までスキップする

努力の先にあるもの。人の縁がもたらした演奏家という道。

 

 

佐野健二 様

卒業:1972年

当時の部活動:器械体操部

お世話になった先生:吉田雅人先生

ご職業 : アーリーミュージックカンパニー

HP: www.emclute.com

Facebook:https://www.facebook.com/kenji.sano.12

連絡先: : emc@emclute.com

Q.現在のお仕事について教えてください。

私はリュートの演奏家をしています。
音楽のジャンルで言えばクラシック系ですが「古楽」と呼ばれるルネサンスからバロックの西洋音楽が中心です。
声楽家の家内も同じジャンルの演奏家で二人での演奏活動が主な活動となります。
実技のレッスンや講座を自宅でも行っており、音楽大学やNHK文化センター等の講師もしています。
自宅レッスンについては個人レッスンが基本なのですが、月2回ペースで古楽アンサンブルの各種講座も行っています。

リュートはピアノとかと比べると愛好家の人口は少ないのですが、アマチュアの方は結構いらっしゃり、そんな方々を中心にレッスンと講座を40年ほどさせていただいているような状態です。
私たちの場合は演奏を中心にしておりますので、個人レッスンに関してはレッスン日などは特に決めておらず「次はいつにしましょう。」というような形で日程調整をしています。
今では生徒数が 30人以上在籍していたり、長い人だと 20 年 ~30 年の付き合いになります。
当時大学生だった生徒さんが今では50代になるなど長いお付き合いをさせていただいています。

※リュート…ギターと同属の短い棹(ネック)を持つ「有棹撥弦楽器」(ゆうとうはつげんがっき)。
日本や中国の琵琶と兄弟関係にあるアラブを起源とする楽器。

※アンサンブル(合奏)…2人以上が同時に演奏すること。

Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?

特に目指そうと思ったことはありませんが、家系的には音楽関係が多く自然な成り行きなのかもしれません。
大きなきっかけは高校卒業時に恩師と出会えたことです。
恩師は大学卒業後に放送局に務めておられたのですが、ギタリストとしての夢を捨てきれずヨーロッパに留学をされて、ちょうど私の高校卒業時に仁川の自宅に戻ってこられました。
父の知り合いから「ギターの良い先生が仁川にいる」と紹介されたのもたまたまの出来事でした。
恩師はリュート奏者でもあり、当時最新のヨーロッパ音楽教育事情をよくご存じで、留学についても的確なアドバイスをしていただきました。
私が留学した頃は、ヨーロッパの音楽学校でも古楽器教育が盛んになり始めた時代で、今世界的な演奏家になってる人たちが教え始めた頃であり、最高の先生方がいるところに留学させてもらったなと改めて感じています。

70 年代の終わり頃に留学から帰ってきて、ソロ活動と共に、恩師の主催する日本の古楽の草分け的なプロの合奏団で10年ほど演奏活動をしていました。
その後 1990 年頃にそのグループを離れ、妻と2人での演奏活動を中心としました。
その演奏活動に対しては様々な賞をいただき、お陰様で仕事としての演奏活動を継続でき現在に至ります。
演奏場所にも恵まれていて自主企画演奏会以外にリュート音楽に最適な複数の会場から年2回ペースの演奏機会をいただいています。

今までありがたいことに続けてお仕事を頂けたので演奏家を続けてこられましたが、音楽活動の収入が途絶えることがあれば私は演奏家にはなっていないと思います。
私自身強い気持ちがあって音楽活動を始めたわけではないので、周りの方や人のつながりに恵まれたことで、今こうして演奏家として活動できているのだと思います。
またきっかけのひとつとして10歳の頃になんとなくギターを買ってもらい、なんとなくギターを弾いていました。
きっかけはなんとなくという部分が大きかったですが、それからずっと続けていたことが今につながっているのではないかな?と感じています。

Q.実際に働いてみてどうですか?

演奏を聴いていただいた方に喜んでいただけるとそれが一番嬉しいですね。
演奏会のアンケートなどで、お誉めの言葉をいただいた時、それが次への大きな励みになります。
ピアノとかの一般的になじみのある楽器とは違い、リュートの演奏は初めて聴く人もたくさんいらっしゃる中で「良かったです」という評価が励みになっていました。
後は初めての CD 制作を東京の会社様からお声がけいただいて録音できたときは嬉しかったですね。
CDを出すことでいろんな人に幅広く聴いていただくきっかけになりました。
またそのCDの批評が雑誌などで紹介されたりするとそれがきっかけで演奏会に来ていただけたり、そこからレッスンにつながったりなどいろいろな兼ね合いで今までお仕事を頂けているのだと思います。

また私の場合は環境に恵まれているというのも強く感じています。
妻と私の母はどちらもピアニスト、私の祖父は西洋音楽学者と琴の検校、叔母はオペラ歌手、音楽が常に身近にある環境で育ちました。
演奏家は毎日の練習が当たり前なのですが、常に練習できる環境に恵まれていたのはお互いの両親に感謝の限りです。

ただ演奏家というのは究極の個人事業者ですので、先のことを考えれば不安がないわけではありませんでした。
この仕事をする上では指一本けがをしたら弾けなくなってしまうし、病気なんかをすれば活動はできなくなってしまいます。
若い頃は「自分が働けなくなってしまったらどうしよう…」という不安がよぎることはありました。
しかし、今年はもう70歳になるので「ここまで音楽家として活動できて儲けものだ」という感覚になっています。
今は体も元気ですし、還暦を過ぎたあたりからはそんな不安もなくなったように思います。

Q.この仕事のやりがいは?

自分の努力が評価されない限り、継続は不可能な点です。
私は努力した人こそが偉いとは思わないですが、努力をしていなくても結果を出せる人がもしいれば「世間的には評価されている」ということになるのかもしれません。
世の中、努力したことが必ず結果や評価につながるとは限りませんが、努力はその後の人生においての何らかの示唆につながるとは思っています。
私は講師としていろいろな人を教えてきました。
「演奏家になりたい」といってレッスンを受けに来られる方がいますが、私がその人を演奏家にしてあげるというのは難しいのです。
結果として演奏家となるには、いろいろな事情が重なり合って結びつくものだと思います。
演奏家は演奏で評価されます。
演奏会で良い演奏であってもいつも同じ演奏をしていては人は離れていきます。
前よりも良い演奏ができたならまた人は聴いてくれるかもしれません。
成功に運は必ず必要になります。その運を活かせるかどうかは今までの努力にかかってくるのです。
そんなわけで自分が評価されて今まで継続できているということはとてもありがたいことだと感じています。

Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?

仁川学院には幼稚園から13年間お世話になったのですが、神父様からお話を伺ったりすることができたのは今振り返ってみても貴重だったと思います。
学生時代に外国の文化に少しでも触れられたというのはよかったです。
今では学生服もネクタイと背広が普通だと思いますが、当時としては新しくてこれから国際的な社会人になっていくためには制服もその方がいいだろうという考えがあったということを聞きました。
学生時代にグローバルな感覚に触れられたことや、建物が立派なのでそこも仁川学院の魅力だと思います。
私が演奏しているリュートは響きの豊かな場所が必要になる楽器なので、響きの悪い場所だと魅力が伝わりにくいです。
仁川学院小学校の企画で、何年か前にグロッタ、コルベ講堂、教会等で演奏させていただいたときに「なんと響きの豊かな居心地の良い場所のある学校か」と感じました。
イギリスなどに行ったときにも不思議と違和感なく過ごすことができたのは学生時代にグローバルな感覚に触れていたことが大きいと思いますし、仁川学院という環境で教育を受けたことが理由なのかな?と思います。

Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?

当時(1960年代後半)の仁川学院中高は人数が本当に少なかったです。
高校卒業生が出てから2,3年しかたっておらず、仁川学院に行けばどんな大学に進学できるのかがまだはっきりしていない時代で、私の中学入学時の募集人数は1クラス40名で中学は男女1クラスずつ、高校は男子1学年2クラス、女子1クラスでした。
私の中学クラスは13名という状態だったんですが、先生との距離間は近くとても親身に接してくださったことを記憶しています。
当時私の担任をしてくださった園田神父様は長らくのイタリア生活から戻られたところで、イタリアやローマの話をたくさんしてくださったことも思い出に残っています。
また13名の修学旅行では団体割引にならなかったんですよね。
そんなときどうしようかという話になったのですが、結果的に親もついてくるという修学旅行になりました(笑)
修学旅行の最中、母親たちはもちろん別行動だったのですが、修学旅行が終わるころには母親たちがみんな仲良くなっていたことも思い出に残っています。
人数が少ないことで、体育ではバスケットボールしかまともにできる競技がありませんでした。
ラグビーなんかをやってしまうと足の速い子がボールを持つとその時点で勝ちになってしまうというような状態で、中高合同の球技大会も基本はクラス対抗なのですが、中学部は人数が少ないので中学全体でひとチームという時代でした。
それこそ高校3年生と中学1年生のいるチームが対戦するという恐ろしいこともありましたが、それはそれで今で懐かしく覚えているくらいなので楽しかったのだと思います。
当時だからこそという、普通ではなかなかできない経験がたくさんあったように思います。

Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?

高校卒業時については将来のことは特に考えていませんでした。
前述の「Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?」でお話ししましたように音楽の恩師との出会いは大きな出来事でした。
仁川学院で13年間の学生時代を過ごして、卒業したタイミングで音楽の師と出会い、また仁川の恩師宅に通い、演奏家としての進むべき方向の示唆をいただき、19歳の時イギリスの音楽学校へ留学をしました。
本当に偶然の繋がりで音楽家になって、気が付いたらこの年まで活動できているという状態です。

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

マリアの園から高校まで13年間を過ごした仁川学院には思い出がありすぎますが、1964東京オリンピックの影響で小4から高校まで続けた器械体操クラブと、高校文化祭での友人とのバンド活動が思い出に残っています。
当時は東京オリンピックで体操がかなり強かったのでブームになっていて、小学校から高校まで器械体操部で活動していました。
文化祭でのバンド活動については、同級生でギターのうまい子がいてその子から「ベースがいないからやってくれないか」というような誘いを受けたのがきっかけです。
これに関しては文化祭限定で組んだバンドではあったのですが、楽しい時間を過ごすことができました。
私が中学生のころは「オートバイとエレキギターは不良だ」と言われていたような時代で仁川でも禁止されていました。
エレキギターはダメで、フォークギターはOKというような時代だったのですが、高校になる頃にはさすがにもういいだろうということでエレキギターが解禁になったのも印象に残っています。

一問一答

Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?

マリアの園幼稚園から仁川に通っていたので、両親が新しい時代のカトリック系の新設校に魅力を感じたのではと思っています。

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

穏やかな校風だと思います。
テレビやニュースを見ているといじめのことなんかがよく報道されていると思うのですが、私自身学生時代そういう目にあったことはないですし、そういう心配をせずに学生生活を送れたのはよかったと思います。
また一昨年くらいに仁川学院を訪れる機会があったのですが、学生さんたちも本当にしっかりとあいさつをしてくださったり、私が通っていた当時からそういう部分がしっかり受け継がれているんだなということを感じました。
また先生と生徒の親密度が高いというのも魅力だと思います。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

勉学にせよ運動にせよ生涯続けられるための基礎作りをしっかりとやり直したいと思います。

Q.仁川学院の卒業生の皆様に何かPRしたいことはございますか?

阪神間を中心に演奏活動をしています。
よろしくお願いいたします。

Q.仕事や趣味で繋がりたい方がいましたら教えてください。

音楽家の人はもちろんですが、茶道と剣道をされている方にも興味があります。
茶道は遠州流、剣道は健康のために還暦後に始め今年四段をいただいています。
よろしくお願いします。

Q.最後に仁川学院学生の皆様にメッセージをお願いします。

恵まれた教育環境にいることに幸せを感じてください。

インタビューを終えて

インタビュー中は落ち着いた雰囲気で懐かしみながら仁川での学生生活について語ってくださいました。
当時はまだ生徒数が少なかった為、修学旅行に親御さんが同行したエピソードはとてもおもしろかったです。
「努力」と「結果」についてのお話で、何かを成し遂げたいと思うとそこには努力が前提になるが運の要素も必要になる。という部分に深い共感を覚えました。
チャンスが巡ってくるのは運の要素が強く、チャンスをものにできるかは努力が肝要。
努力のすべてが報われるわけではないけれど、結果を求めるのであれば努力は必ず必要になるという一つの真理を感じるようなお話でした。
佐野様、この度はお忙しい中快くインタビューを引き受けて下さりありがとうございました!