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過去の奮闘と歴史の執筆

 

 

お   名   前:武藤 郁夫
卒       業:1966年
当  時  の  部  活  動:合唱部
お世話になった先生:山本先生
連   絡   先:daisei-0807@hop.ocn.ne.jp

Q.現在の生活についておしえてください。

現在は、小説やエッセイの執筆を趣味程度ですが、細々とやっております。
小説は、主に戦争を題材にした小説を書いていまして、ネタ集めとして太平洋戦争の研究をしています。
研究が進むにつれて新しい説が出てきたり、定説を覆す証言が出てきたりと調べ出したらキリがないのですが興味深いものです。
元々、出身が旧満州でして戦後体験を6年間体験していることもあったので、戦争について調べるきっかけになりました。
現在もインターネット上で有料で出してまして、100人ほど、閲覧いただいてます。
戦争小説ですので、ドラマ化しにくい部分もあるのですが、共感いただいて読んでくれている人がいるのはありがたいことです。

Q.現在のお仕事について教えてください。

退職前は国際協力機構(JICA)に勤務して、専門家派遣業務や青年協力隊という海外で約2年ほど奉仕をされる方たちの派遣に関する業務・研修を16年ほど勤めて退職した後、「KYOTO映画塾」にプロデューサーコース第1期生として入塾し、修了後はテレビドラマの企画立案業務をおこなっておりました。

Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?

仁川学院を卒業したころから、国際協力に関することに興味を持っていましたが、受験に失敗し、アルバイトをしながら生活していたら24歳の時に運よくJICAの採用試験に私だけ合格し、就職することが叶いました。

映画界に踏み入れたきっかけは、学生のころから映画が好きだったのと、JICAの退職後、ショー・コスギさんというハリウッドでスターになった方が、日本の映画の製作に乗り出すという記事を見つけたときに、当時は仕事もなかったので自分も何か携われないかと思って映画製作事務所に「手伝わせてください」とお願いしたんですけど、ノウハウがないと厳しいということで、映画塾に2年ほど通って、映画事業に従事しました。
映画塾では部門が色々あって、それぞれプロデュースコース・脚本家コースなどがあって2 年になると現場で業務をするので、そこでノウハウを学びました。

Q.実際に働いてみてどうですか?

国際協力機構は政府直轄の大きな組織だったので、実際に国際協力を担う実施機関でありながら運営に係る方針や重要決定事項に関する決定権を持てないことに違和感を感じることがあったのと、配属部署によって、業務量に大きな差があったこともあり、身体の負担も大きくなり、退職を決意しました。
映画製作も大変ですね。
例えばテレビドラマを制作するときは、キャスティングしたり、原案の放映材を交渉したりと、とにかく人にお願いすることが多いので、人間関係には気を使います。
原案を交渉してもはねのけられることが多いので大変でしたが、作家の松本清張さんの事務所と交渉する機会もありましたので、貴重な体験をすることができましたね。

Q.この仕事のやりがいは?

青年協力隊と一緒に仕事ができたことがやりがいですね。
彼らは、就職しているにも関わらず、2年間海外に派遣されて農業の指導や学校の先生など、様々な奉仕活動をされるのですが、皆さん男女関係なくパワフルで熱い方たちだったので、そういった方々と関わって仕事ができたのは喜ばしいことです。
派遣される前は、研修で朝から晩まで、身体を鍛えたり、現地の言葉を勉強したりと、厳しい研修ではありますが、そういった方々と関わって仕事ができるのは、普通の職場では味わうことのできない経験だったと思います。

映画製作も大変ではありましたが、企画が通って放映されるときは、嬉しいですね。
ちょい役で、自分の企画した映画に出演する機会もいただけましたので、大変さもありますけど、放映されて皆さんに見ていただけると満足です。

Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?

その点については正直言って何とも言えないところですが、JICAに勤務していたころ、仁川学院の恩師から受け持ちの生徒の中に国際協力に強く関心を持つ方がいるので、是非力を貸してほしいと言われ、JICAの資料を先生宛に送ったことがありました。
多少は先生や後輩の生徒のお役に立てたかなと誇らしく思えたものでした。

Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?

小説を書いたり、校舎が男女別なので女子と文通したりしていました。
映画がとにかく好きで、当時は娯楽が映画しかなかったので、ハリウッド映画や黒澤明さんが手掛けた大作が出ていた時代でした。
父親や兄に連れられて行くうちにはまってしまい、映画館に入り浸って2時間ものの6本立ての大作を12時間ずっと見てた日もありました。(笑)

Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?

卒業後は学生時代から興味のあった国際協力機構(JICA)に就職し、16年ほど勤めて、退職しました。
退職した後は、仁川学院の同級生とビジネスを2年ほど始めたのですが、経営がうまくいかず、事業を閉鎖し、映画事業に従事しようと思い、「KYOTO映画塾」にプロデューサーコース第1期生として入塾し、ノウハウを学びました。
その後は、(株)松竹とプロデューサー契約を結び同社に入社し、テレビドラマの企画立案業務を契約満了までした後は、退職し、個人事業の傍ら小説やエッセイの執筆を行っています。

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

学生時代の最後に、優しくて美しかったシスター・ポールフランシスが卒業式で我々に送ってくれた言葉が一生忘れられないものとなりました。
それは「あなたが、誠実に全力で人生に取り組んだのならば、いずれあなたは家族の誉れとなるでしょう」というものでした。

一問一答

Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?

千葉の県立高校から、西宮市の公立高校に転入を希望したのですが、残念ながら私の学力に問題があって、受け入れてもらえなかったからです。

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

テストの点数を競って、生徒間で競争心を燃やし合う雰囲気の進学校だった千葉の公立高校から転入してみたら、仁川学院では和気あいあいの雰囲気であった上に、気の置けない仲間たちが集まっている環境に安心感を覚えました。
その頃の仲間とは60年近く経た今も兄弟のように親しくさせてもらっています。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

2年時に、合唱クラブを立ち上げましたが、肝心のリーダーをバイクの事故で失い、同クラブが消滅してしまったということがありましたので、亡くなった彼の為にも合唱クラブを再開させたい。

Q.仁川学院の卒業生の皆様に何かPRしたいことはございますか?

現在、仁川学院高等学校同窓会のサポーターとして活動しています。
一緒にサポーターとして母校に恩返ししたい方募集中です。

Q.仕事や趣味で繋がりたい方がいましたら教えてください。

この先の残された人生におけるライフワークとして、第2次世界大戦の戦史(特に太平洋戦争)や古代遺跡に関する謎や宇宙に関する謎に関し、これらを探求しようとする仲間と交流を望みます。

Q.最後に仁川学院学生の皆様にメッセージをお願いします。

自分の志望する道を見つけたら、それに邁進し全身全霊で打ち込んでほしい。
私が仁川学院を卒業する際、恩師山本先生からいただいたメッセージを観たら、大きな字で「男ならやってみろ」とありました。
これには痛く感じ入り、肝に銘じました。

インタビューを終えて

武藤様は、博識な方で、インタビュー中に思わず聞き入ってしまいました。
特に太平洋戦争に関しての解明されていない謎について熱くお話していただいたのが印象的で、様々な説が飛び交う中、自分の説について語っておられる武藤様は本当に楽しそうでした。
小学生のころには、兵器を見ただけで、どこの国のものかが分かるほど、夢中になっていたとのことで、いつか仲間たちと太平洋戦争の戦史について語ってみたいと話されておりました。

武藤様、お忙しい中インタビューのお時間をいただき誠にありがとうございました。
↑武藤様のご子息・ご息女たちのお写真