生まれ育った場所を守り抜くために
高橋 秀典さん 卒業:1989年 当時の部活動:吹奏楽部 お世話になった先生:先生 ご職業 : 学校法人 慈愛学園 理事長 |
Q.現在のお仕事について教えてください。
幼稚園の理事長をしており、尼崎で2つの園を経営をしています。
Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?
元々はこの慈愛幼稚園内に居住スペースがあり、生まれも育ちもこの場所で生活していましたので物心ついた時から、ずっとこの場所にいました。
もちろん幼稚園の時は家と園が一緒ですし、小学校の時は家に帰ってきたら園内の手伝いをしたり、幼稚園生と一緒にして遊んだりしてましたし、近所の子も遊びに来てみんなで一緒にこの園庭で遊んでたというような環境でした。
なので中学に入った時に「どんな仕事がしたいんやろ?」って考えた時には、この仕事しか思いつかなかったです。
明治生まれの祖母の教育方針の影響も大きかったかもしれませんが、高校生に入学した時点で友達に「幼稚園の先生になるねん」と自慢する様に話してた記憶があります。
何が好きとか良いとかではなく、漠然とこの仕事を継いでいかないと!っていう思いが強かったように思います。
Q.実際に働いてみてどうですか?
働く前から生活の一部だったので幼稚園の先生になってからのギャップはなかったです。
ただ三田に幼稚園を開園してからは、それはもうバタバタでした。
1996年に三田で幼稚園を新規開園する予定がありながら、1995年の阪神淡路大震災の影響で新規開園する状況でなくなった園の代わりに急遽受け継ぎ、1996年4月に三田で園を新規開園しました。(現、親和女子大学附属親和幼稚園)。
園児募集をして、入園説明会をする直前に園長予定者が辞退をした為、園長代理として実質園のトップとして任命されたのが経験2年目26歳のころでした。
そこからは経営・運営の仕事をずっとしてきました。
そして正式な園長となった2005年に父が倒れたのをきっかけに、さらにやったことないことを、やらないといけない状況が続きました。
近所の方や同級生から”お坊ちゃん”として見られてたり、ずっとそういう環境で育ってきたんで、今思えば当時の自分はピノキオになってたと思います。
その反面、そんな自分がすごく嫌でした。
でも実際社会に出たら、そんなこと通用しない世界でいきなり突っ走らないといけない環境だったので本当に鍛えられました。
振り返ると全ていい経験ができたと思います。
Q.この仕事のやりがいは?
卒園していった園児たちがスポーツ選手になったりと活躍しているすがたを見れるのも、もちろん嬉しいですし卒園してからも「○○高校・大学に受かりました!!」って顔を見せに来てくれたり、卒園児が先生になって帰ってきてくれたり・・やっぱり大きくなった姿が見れたときはやりがいを感じる瞬間ですね。
また、手入れは大変なんですが子供達に本物に触れて欲しくて、生き物や植物も本物を沢山置くようにしてるんです。
そうすると園児たちが「バッタ捕まえたから持ってきたよ!」って持って来てくれたり、近所の方が「メダカが沢山生まれたから~」と持って来てくれたりするのも嬉しく思います。
また、慈愛幼稚園の職員たちのお子さんを「私もココに預けたい!」と言って預けてくれる割合がものすごく高いんですけど、そういう時にとてもやりがいに感じます。
自分の職場に自信を持ってくれていること、安心感を持って預けてくれていること、本当に嬉しいです。
Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?
やっぱり仁川学院の”和と善”の精神や教育方針は今も生きていますね。
人との繋がりを大事にする校風だったので、それは今でも大事に引き継いでいます。
Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?
中学の時に野球部か吹奏楽部か悩んだ末に小学校の時に尼崎市の少年音楽隊の吹奏楽入ってた経験もあり吹奏楽部に入ろうと思い見学日に見学に行くと、先輩1人でトランペット吹いてただけでクラブ活動をしてなかったんです。
「こんな部活・・」と思い、中学校では野球部に入りましたが高校に入ってからは、事情も知っていたので吹奏楽部に入部して先輩や後輩・友達にも恵まれ日々充実しておりました。
当時の吹奏楽部は長い間、コンクールに出場していなかったのですが部員が増えてきて高校1年生の頃にコンクールに出場しよう!となりコンクール出場を目標にみんなで頑張ったりと、楽しい学生時代を過ごしてきました。
Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?
卒業後は幼稚園教諭免許の取れる大学に行きました。
そして大学を卒業した後は、生まれ育った慈愛学園の幼稚園の先生として就職いたしました。
2年程先生を経験をした後、先ほどお話いたしました三田の幼稚園を立ち上げ、その後、園長を務め半年経った頃に父が倒れた為、慈愛学園の理事長になり14年経ち、今に至ります。
今思えば、三田の幼稚園の立ち上げた頃が人生のターニングポイントだと思います。
三田のニュータウンは色んな地方から移り住む方が多く、街の特色も雰囲気もまだ出来上がっていなかったですし、文化も考え方もバラバラなうえに、慈愛幼稚園がどんな幼稚園か、どのような特色があるのかなんて分かってる方もいませんでした。
親御さんから「以前通ってた幼稚園では、こんなことをしていたから、こうして欲してください。」と意見があったり、意見を取り入れてやってみると次は他の親御さんからは反対の意見がでたり、、
幼稚園の方針を丁寧に説明したとしても「経験2年目の年下で子育てもしたことない方には分かる訳ないでしょ。」と沢山言われてきましたし、本当に1つのブランドとしてイメージを作り上げるのはかなり大変でした。
でもその経験があったからこそ頭が切り替わったような気がします。
今では、納得していただける説明もできますし、それだけの説得力も身についてますし、全ての経験が力に変わったかと思います。
Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?
先ほどお話してしまいましたが、吹奏楽部に入り「コンクール出場する為に頑張ろう!」とみんなで先生を頑張って説得したんです。
そこからは皆で一生懸命練習に励み高校2年生の時にコンクール出場できまして、なんと3年生の時にはコンクール出場できたうえに銀賞を取れたことが今でも凄く印象に残っています。 良い思い出です!
一問一答
Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?
自宅が近いからという点と、母がYMCAのリーダーをやっていたり、キリスト教の学校出身だったこともありキリスト教にも理解があったことと、仁川学院の教育方針を気に入ってたのが仁川を志望したきっかけでした。
Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。
沢山良いところはありますが、一番は先生たちが生徒の事を親身に見てくれるところです。
そのお陰で本当に安心して学校に行けました。
Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?
失敗したことを取り返したいです(笑)
高校の学園祭の時にバンドを組み演奏をすることになったんですが、ギター担当がどうしても足りず..本当は他校の子が出るのは禁止されていたんですが、一緒にバンドをしていた後輩の中学時代の友達に依頼し、仁川学院の制服を貸して出演してもらうことになりました。
当日、何曲か演奏してる間に先生が仁川学院の生徒じゃない子がバンド内にいることに気が付き、すぐに演奏中断し「何してるの。あと1曲したら降りなさい。」と注意を受けたことがあったんです。
他にもそういう沢山の失敗を取り返したいです(笑)
Q.仕事や趣味でつながりたい方はいますか?
ゴルフを趣味でやってるので一緒にやりましょう(^^)!
Q.最後に仁川学院学生の皆様にメッセージをお願いします。
勉強以外にも何かに興味を持って、出来ることには躊躇せず思い切り楽しんでやってください。
きっと大人になってからその経験は役に立つと思います。
インタビューを終えて
26歳という若さで、沢山の大変な経験を力に変え、家業を引き継ぎ守り続けていることは本当にすごいことだと感じました。
また、子供たちには本物と触れ合ってほしいということで沢山の生き物・植物が園内にあり本物の絵も飾られていました。
階段の段差、手すりの低さ、植物の配置、園内の隅々まで子供たちの事を考えてつくられた空間はとても居心地の良い素敵な場所でした。
高橋様、貴重なお時間をいただきまして本当にありがとうございました!