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自由な時間が生んでくれたもの

お名前 : 鈴木 康照 (すずき こうしょう)様

卒業:1989年年

当時の部活動:卓球部

お世話になった先生:松山先生、古木先生

勤務先 : 日蓮宗 教福寺 住職

連絡先 : kosho@kyofukuji.com

Facebook:https://www.facebook.com/kosho.suzuki.1

HP: https://www.kyofukuji.com/

Q.現在のお仕事について教えてください。

神戸市灘区にあります日蓮宗教福寺の住職を勤めております。
僧侶として日頃の仏事(葬儀・法事など)をお勤めする事をはじめ、皆様の人生の悩みや迷い岐路に立った時などに寄り添い、お釈迦様の教えを基に良きアドバイスが出来るよう、私自身日々研鑽を重ね精進し、仏さまにお給仕をさせて頂いております。
また、世界3大荒行にも数えられる日蓮宗大荒行堂を3回成満させて頂きました。
この荒行にて培った秘法をもって祈祷師としても活動を行い、また声明師として僧侶育成の指導、書道師範として書道教室等を行っております。
地域やご縁のあった皆様方の拠り所として、子どもの為の地蔵盆コンサートやバザー、写経会など様々なイベントを企画しています。

Q.なぜこの仕事を目指そうと思ったのですか?

実家がお寺で、三代続く尼寺で生まれました。毎日沢山の悩める方々が来寺され両親や祖母が相談に乗り、1人1人に耳を傾け、優しく時には厳しく諭す先代の後ろ姿を見て育ちました。
しかしながら反対に若かりし頃は、人生に疲れ切った大人たち、人生とは、死ぬとは、生きるとは、考えれば考えるほど分からなくなり、お寺の子供として嫌になりお寺から目を逸らす時期がありました。

中学時代、私は普通の公立高校に進学しようと考えていましたが、両親が「それならばキリスト教の仁川学院高等学校に入学し一度外から仏教を見ておいで。」と仏教とは正反対といっても過言ではない、道を勧めてくれたんです。
両親の提案に対して「面白い」と思い仁川学院高等学校に進学いたしました。

後から振り返ると、両親の度量の大きさ、寺の子を受け入れる仁川学院の寛容さ、その三年間で感じた自由な校風、穏やかさ、苦悩と救い、慈愛の精神が心地よく感じ、宗教は違えどもキリスト教も仏教も人々を救う、心の拠り所として大切な役割があるのではと気付かされました。
そんな高校の3年間の自由な時間が「自分とよく向き合う」時間となりました。

その「自分とよく向き合う」きっかけを与えてくれたのが、ある神父様でした。
私と同じお寺で生まれ育った神父様は、空き時間によく世間話などをしてくれていたのですが、ある日「あなたも、神父になる道を歩むのですか?」と聞かれ、その日から以前よりも真剣に自分の進路について考えだしたのです。
正直、自由で華やかなキリスト教の道を考えなかったと言えば嘘になります。
そんな紆余曲折がありながらも、在学中に少しづつ僧侶になる決意と覚悟を固めていきました。
卒業式当日には、頭を丸めて出席した事を今でも鮮明に覚えております。

※尼寺…女性が住職のお寺のこと。女寺(おんなでら)とも呼ばれる。

Q.実際に働いてみてどうですか?

日蓮宗には荒行があります。
毎年11月1日から2月10日までの100日の間に山に籠ります。
全ての日蓮宗の僧侶に課せられる修行ではなく、秘宝を身につけたいと自らが志して挑むものです。
この修行を終えたものだけが日蓮宗の祈祷を行う事ができます。
この修行は毎朝2時に起床、1日2時間の睡眠。寒水に身を清める水行を1日7回(3時・6時・9時・12時・15時・18時・23時)に行い他の時間はお堂の中でただひたすらにお経を読み、写経を続けます。
衣は白木綿でできた薄い着物と清浄衣という死装束をまとい、常に素足で行います。
修行の少しの合間に朝夕の2度だけ梅干し1個とわずかな白粥を頂きます。
隔離された場所なので家族や友人と連絡を取ることは許されず、もちろんテレビや新聞から情報を得ることもできません。
寒さと飢えと睡魔に耐えながら生死の淵を歩み、ひたすらに修行を続けるのです。
命をかけた修行ですから毎年志し半ばで亡くなる僧侶も多くいます。
私もこの修行を志し、修行の際は自問自答しつつ我を見つめ直し、自分の傲慢さ、弱さ、未熟さを痛感しました。
その中で必ず生きて出る!心の底から湧き出る力も感じることが出来ました。
無事に何とか意識朦朧の中、山から下りてきた時に家族や友人、お寺の檀家さん達が涙を流し私を待ってくれていた姿は心に焼き付いております。
沢山の方々に支えられて自分があるのだと気づかされました。恩返しのために、悩める方々を救わんがために、これから生きていこうと誓った修行時代でもありました。

Q.この仕事のやりがいは?

僧侶とは修行や人生の苦楽を経験すればするほど味が出てきます。
若い駆け出しの時には経験値もない若い僧侶に人生の先輩たちは信頼して頂けないのではと感じる事もありました。
しかし、ただひたすらに慈悲の心、揺るがない信仰信念があれば年齢や経験値は関係なく人は信頼し、心を開いてくれると思います。
自身を律する事は大変ですが、何よりも、皆様がお寺に来られて時を過ごし、心晴れやかに帰路につかれる後ろ姿を拝ませて頂く時が嬉しく思います。

Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?

学生時代の自由な校風のお陰で今があると考えています。

今になって思うと、厳しい環境に身を置こうと思ったのは3年間自由な時間を与えていただいたからだと思います。
自由な学校生活があったからこそ、あえて厳しい環境を求める「人の性」というものを学べたのは仁川学院で過ごせたからこそだと思います。

Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?

体育会の部活に入りたいと思っていたのですが、元々体が弱かったこともあり、部活動はできませんでした。
しかし諦めきれない気持ちろと、野球が大好きなのもあり、在学中は軟式野球同好会を立ち上げ、友人と打ち込んでいました。

また、他校の生徒の方とアメリカへホームステイしたりと、存分に自由を堪能させてもらいました。

Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?

僧侶になると心に決めておりましたので迷わず仏教系の立正大学へ入学しました。
仁川学院から立正大学への入学した生徒は初めてだったと思います。
その頃は、仁川学院と立正大学の間にパイプなどなかったのですが、3年間担任して頂いた松山先生に「推薦状書いてください!」と無理なお願いをしたんです(笑)
その後無事、合格した報告を松山先生にお伝えしたときに満面の笑みで「おめでとう!良いお坊さんになれよ」と強く握手をして頂いた事を鮮明に覚えています。
それをきっかけに、毎年仁川学院から1人ずつ立正大学にいける枠を作ってくれたそうで、松山先生には大変感謝しております。

仏教学部宗学科はお坊さんになる為の学科ともいえます。
その上、宗門の学寮に入寮し修行しながら大学へ通う日々でサークルやバイトなどの楽しい学生生活は禁止され、他の学生が羨ましくてしかたなかったです(笑)
ですが、大学時代に切磋琢磨した仲間達とは今でも、今後の仏教について話し合ったりと付き合いがあり、私の一生の財産だと思っています。

この学寮で僧侶の英才教育を受け、卒業し、自分の生まれ育ったお寺に意気揚々を自信たっぷりに帰ってきましたが、そこで思い描いていた崇高で気品髙いお寺像と違って、人生に悩み疲れ切った方々がひっきりなしに訪れ、泣き叫んでいる姿を毎日目にし、必死に向き合っている両親がいました。
大学で教わった教養や仏事作法、お経、書道などなど何の役にもたちませんでした。
天狗になっていた私は、これはお坊さんの仕事じゃない!とお寺を飛び出してしまいました。

飛び出して初めての一人暮らしをし、仕事を探そうとしていた矢先に阪神淡路大震災が起こりました。
その時、神戸の元町で暮らし始めてたので被災し、3日間崩れ落ちたアパートの中で助けを待っていました。
後で伝え聞きましたが仁川学院で同級生だった友人がこの地震で亡くなったと聞いた時には愕然となりました。
かろうじて助けだされた私は変わり果てた神戸の街並み、大切な家族を失った人々を目にし、私は何をしているんだろう。
頂いた命と共に、何のためにお坊さんになったのだろうと頭を強く打たれました。
仁川学院で学んだ精神、僧侶になろうと決心した時の志し、人々の拠り所となるべくための僧侶の姿を忘れていた事にやっと気付いたのです。
しょうもない僧侶のプライドやエリート気取りの自分が恥ずかしくなりました。
実家に帰り心を入れ替え一から出直しの心構えで荒行に入り再出発をしました。
私にとってこの阪神淡路大震災がターニングポイントだったと思います。

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

アメリカへホームステイに行かせて頂いたことです。

見る物、食べる物、感じる物、人種、全てがセンセーショナルで世界は広いなと感じました。
当時の人種差別問題を目の当たりにした時は嫌な気持になりましたがこれが世界にとって当たり前のことなのかと思っていたこともありましたし、食文化については渡されたお弁当が人参一本だけで、仕方なく丸かじりしてました。(笑)
いい意味でも悪い意味でも自由な文化について勉強になりました。

当たり前かもしれませんが、付き添いの蔵野先生が現地の人と対等にお話をされているのを見て、さすがだなと感じました。この時のホームステイ先のご家族や一緒に行った友人たちは今も親交があります。

一問一答

Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?

親の勧めです。当時としては土、日が休みだったのは魅力的でした。

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

自主性に任せ、個々の個性を尊重する校風が素晴らしいと思います。生徒も穏やかで荒れた学生生活とは無縁の雰囲気で楽しく落ち着いて勉学に励むことが出来ました。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

野球部に入りたいです。

また、現在僧侶になった私が聞きに行くと道場破りみたいに捉えられてしまう可能性もある為、今の記憶のまま当時に戻ったら、神父さんに宗教についての考え方、どのような理念で宗教を説いてる、など沢山お話したいことがあります。

後は、洗礼を受けている方だけに許されるクリスマスミサに参加したかったです。
今でもとても興味深いです。

Q.仁川学院の卒業生の皆様に何かPRしたいことはございますか?

卒業生とは違いますが、松山先生には3年間担任になってもらったのでお礼を言いに行きたいです。

Q.仕事や趣味で繋がりたい方がいましたら教えてください。

冠婚葬祭業の方や仏教に興味のある方。
食べ歩きが好きなので飲食店経営の方など(笑)

Q.最後に仁川学院学生の皆様にメッセージをお願いします。

私も高校時代の友人は今でも親交があり、今でも互いに励まし切磋琢磨出来ています。
一生の親友を作ってほしいです。
そして好きな事や挑戦したい事は何でも思いっきりして欲しいです。

インタビューを終えて

終始、朗らかな印象を受けました。
時折冗談なども混ぜてくださり明るく、楽しい時間を過ごせました。

過去には阪神淡路大震災で被災され、大変な苦労と経験され、その経験から僧侶になるための決意を再燃し、厳しい修行に身を投じる中で多くの人に助けられ、支えがあったからこそ、今の鈴木さんの人柄があるように思えました。

「今の記憶のまま仁川時代に戻れるなら」で答えて下さった、神父様と沢山宗教についてや理念についてお話をしたいとの回答、僧侶になった今でも他の宗教についても深く理解をしたいと強く想っていらっしゃることが伝わりました。
文中には掲載していないのですが今もまだ世界で行われている、平和を説いてる宗教同士の宗教戦争についてや、平和の為に少しでも出来ることをしたい、と本気で考え悩まれてる姿、どれだけ経験を積まれたら鈴木様の様になれるのか、、僧侶の道を歩むためには相当な覚悟がなければここまで辿り着かないのだろうと考えさせられました。

また、文中に「切磋琢磨した仲間は一生の財産です。」と仰っており、この言葉に鈴木様の人柄が表れてる素敵な言葉だと思いました。

鈴木様、お忙しい中貴重なお時間をいただき、また取材にご協力いただき誠にありがとうございました。