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仁川から始まった変わらない繋がり

 

 

お   名   前:長尾 亘
卒       業:1966年
当  時  の  部  活  動:テニス部
お世話になった先生:山本先生(英語)・山本先生(数学)・小川先生(国語)・清水先生(体育、剣道)
連   絡   先:waterloo2257@gmail.com

Q.現在の生活や環境について教えてください。

写真が好きで、カメラを持ってあちこち撮りに行っています。
飛ぶものが好きで、趣味で鳥や飛んでる虫を撮影していますが、特に飛行機が好きで、大阪空港で、飛行場の飛行機を撮影してますね。
印象に残ってるのは、トランプ大統領が来日された時はエアフォースワンがあるってのを聞いて急いで大阪空港に行って撮りに行った思い出があります。
最近はiPhoneでもきれいに写真が撮れますので、わざわざ大きいカメラを用意しなくていいので便利な時代になったと感じますし、大統領が関西空港に来るという情報が手に入るのも昔じゃ考えられないですよ。
あとは、卒業後も繋がりのある同級生2人と時々会って食事したりして、当時の仁川の在学時代について話してます。


↑長尾様が撮影されたエアフォースワンの写真

Q.現在力を入れていることは何ですか(料理やスポーツなど)

今は、特にウクレレに力を入れてますね。
週に1回ですが、神戸三宮の先生のライブスタジオで先生からウクレレの弾き方を約8年ぐらい習っています。
きっかけは、趣味の写真撮影でフラをしている友達の発表会で写真を撮っていたら、偶然、今、通っているウクレレ教室の先生と出会って、意気投合したのがきっかけでウクレレを始めました。
最近はある程度、弾きながら歌えるようになりましたが、昔は弾きながら歌うことはできませんでしたね。
先生もすごい有名な方で、ストリートライブもされてますし、フラフェスティバルと言ってフラダンサーや演奏者が集まって演奏するイベントで6時間演奏されたりして、元気な方です。
練習中も優しくていくら自分が下手でも嫌な顔一つせず、教えてくれますので、続けていて本当に楽しいです。
時々、先生のライブスタジオで演奏される日に遊びに行ったりしますが、先生から指名されて歌わされたりしますので、「それだけは勘弁してください」って言ったら怒られますけど・・・

 

※フラ・・・ハワイの伝統的な歌舞音曲である。フラにはダンス・歌唱・演奏の全てが含まれる。

Q.お仕事は何をされていましたか?

ダイヘン(旧・大阪変圧器)という会社に就職して電子センターというところでデータの入力プログラムを作り資材管理をしていました。
仕事も続けながら大学時代から始めたボーイスカウトと、ワイズメンズクラブを両立していました。
データ管理の仕事は、京都産業大学で、コンピューター系の勉強をしていたのと父親が関西電力に勤めていてその関係で紹介してもらったのが、就職したきっかけですね。
仕事内容は、COBOL(コボル)という事務処理用のプログラミング言語を使ってパソコンに読み込ませて資材管理をするというもので、特に、目指そうと思ってやったわけではありませんでしたね(笑)

ボーイスカウトは、大学時代に仲良くなった友達がボーイスカウトをしていて、大学のクラブとして発団する為にメンバーが言われて誘われたのがきっかけですね。
いろんなキャンプ地に行ったり、地元での手伝い(夜回りや町の掃除)をやってました。真夏の日に薪を背負って神鍋やハチ北高原に行ったりして、しんどい体験したけれど、仲間と協力できることが何よりも楽しかったので、定年後も続けてましたが、身体的にしんどい部分もあり、15年前に引退しました。

ワイズメンズクラブは、ボーイスカウトの活動をしながら友人の紹介で知り入会しました。
元々、人と交流するのが好きなので、人との輪を広げてみようってことで始めました。
ワイズメンズクラブは年に1回国際大会がありまして、その準備をしてました。
資材を運んだり、テントをたくさん張ったりとやることが多かったですが、面白かったですね。

Q.この仕事のやりがいは?

プログラマーと言われる仕事の始まりは、そもそも、データで管理するというのが始まったばかりで、パソコンも今みたい机の上に置く大きさではなく、一部屋に置く大きさです。
会社では、仕事をする部屋は思うように冷暖房が使えなかったのですが、コンピューター室だけは故障を防ぐためか、コンピューターを使う部屋だけは年中冷暖房がついていましたので、快適に仕事することができました。(笑)
仕事でプログラミングしていたからか、この年になってもエクセルやWordもなんなく使えるようになったので周りからは「76歳で使いこなしてる人いませんよ」と言われたこともありましたのでいい経験になりました。

ボーイスカウトは、大学生から始めてすぐにリーダーという世話役を任されていました。
指導したスカウトが今、指導者になっているのを見ると感慨深くなって、つい我が子のように思ってしまいます。
あとは、ジャンボリーというボーイスカウトの大会があるんですけど、色々な国でジャンボリーがあり、日本でやるときは、海外のスカウトが来日し一緒にキャンプをします。
言葉が分からなくても、楽しい友好を築くことができて新鮮でしたね。

ワイズメンズクラブの時は、いろんな方との交流ができるのが、面白かったですね。
都道府県ごとに部があって、私は六甲部の中にある7つのクラブの内の一つ宝塚クラブの会員にYMCAの支援と地域の支援活動をしています。
年に1回西日本区大会、アジア大会、国際大会があって国際交流も大事にしています。
一番身近なところでは部がありクラブの交流があります。
他のクラブの方とお話を聞くと、実は仁川の卒業生だったり、ボーイスカウトをしていたりと、思わぬところで共通点が出てくるので、そこから知り合いが増えていくので、やっててよかったと感じます。
私を紹介してくださった西村君(仁川学院生)もワイズメンズクラブの交流会で知り合いました。
今でも西村君が日本に帰国した時は、食事会をして、ボーイスカウトやワイズメンズクラブの時の思い出話を語っています。

Q.仁川学院時代に学んだことで今の仕事に生きていることはありますか?

仁川学院、ミッションスクールとして宗教関連の授業があったことですね。
当時は、自分には関係ないと思っていたことでも、ワイズメンズクラブに入って、仁川学院で学んだカトリックに通ずるものがあったので、運命のようなものを感じますし、おかげで西村君(同窓生)と知り合うこともできたので、仁川には感謝しかないです。

※ミッション・スクール・・・福音宣教(mission)を目的とする修道会などが設立した学校でキリスト教の教えを教育理念に掲げている

Q.どんな学生時代を過ごされていましたか?

部活にのめりこんでいました。
今は男女共学では共学になっていますが、当時は通学駅の校舎も男女別に分けられていました。
グランドは今も同じで広かったけど部活もなかったので使ってなかった記憶があります。
2回生で部活も立ち上げる段階の中、私はテニス部に入りました。
当時は3年生が 2人・2 年生が8人ぐらいで顧問はテニスの経験の無い先生の名前を借りて部を立ち上げた状態でコーチも居なかったため、中学でテニスをしていた同級生に教えてもらっていました。
新人戦など大きな大会は報徳学園のテニスコートでありましたが、関学、甲南、報徳が強くて手も足も出なかったのを覚えています。
私がいたころは、野球部やサッカー部も団体活動で、人数が集まらなく苦労していました。
吹奏楽部はありましたが、指導者、部員も楽器も少なく、コンクールに出場できない時代でした。

Q.仁川学院卒業後は、どのようにしておられましたか?

卒業後は、京都産業大学に推薦で進学しました。
特に目的があったわけじゃないんですけど、先生から「ここを受けてみないか」と言われて出されたのがきっかけでした。
当時は推薦で行ける大学が少なくて、先生からしたら推薦枠の学校を増やしたいという思惑もあったのか、「しっかり勉強しないと次の後輩がここに入学できないからな」とプレッシャーをかけられたのが印象的ですね。
進学後は、経営学部に入って、理工学に関する勉強をしておりました。
在学中に、フランス語教室で仲良くなった友達からボーイスカウトを立ち上げるからメンバーに入ってと誘われたので言われるがまま入隊し、地本でも指導者として35年間続けました。
大学卒業後は、ボーイスカウトを続けながら大阪変圧器株式会社(現 ダイヘン)に就職しましが中途退職して、叔父の経営する不動産管理会社に移り定年を迎えました。

Q.仁川学院時代の印象に残っている思い出はありますか?

校則が厳しかったのが印象的ですね。
私たちが入学したときは、男子部は40人で2クラス80人ぐらいいて、卒業時は60人ぐらいに減っていたと思います。
「何があったんだ」と思ったくらい厳しかったです。
特に、男女別の校舎で、登下校も別にさせられたのは、今でもよくわからなかったですね。
駅が女子は、甲東園駅で、男子が仁川駅から通学だったので、「なんで駅一緒じゃないねん」と同級生とぼやいていたのは今でも覚えてます。

普通の学校だったら体育は選択制で、柔道や弓道とか選べたりすると思うんですけど、僕らの時は剣道しかなかったので選べなかったんです。
剣道だけ清水先生という剣道を8段持ってる先生しかいなかったので、体育は、剣道しか選べなかったんだと思います。
今の学生は体育で選択できるのはうらやましいですね。

一問一答

Q.仁川学院に入学しようと思ったのは何故ですか?

戦後ベビーブームで生まれた一人で、高校受験の大変だった大阪の公立中学校で挫折、親がミッション系の高校を探してくれて受験しました。

Q.あなたが思う仁川学院の一番いいところを教えてください。

ミッション系であること、宗教の授業、礼拝を通して習った「愛と奉仕」の精神を今も大事にしています。

Q.もし、今の記憶のまま仁川学院時代に戻れるとしたら何をしますか?

入学した時にクラブ活動が無くテニス部を作るために顧問の先生は出来ましたがコーチがいないまま3年間を過ごしました。その後、コーチも見つかり強くなった様でしっかりテニスがしたい。

Q.仁川学院の卒業生の皆様に何かPRしたいことはございますか?

2回生ですが元気にしています。

Q.仕事や趣味で繋がりたい方がいましたら教えてください。

仁川学院で教えてもらった「愛と奉仕」と同じ理念を持っている国際協会 YMCAに関わり、さらにサポートする国際協会ワイズメンズクラブの宝塚クラブに入会してクラブと共に一員として地域の活動しても奉仕をしたりして沢山の人と繋がりがあります。

今、繋がっている団体と趣味としているウクレレの仲間を通して、これからも沢山の人と繋がりたいです。

 

インタビューを終えて

今回は2回生という仁川学院の始まりを知っている方にインタビューすることができました。
当時は部活動もなく、自分で作るしかない状況にあったこと、体育は剣道しか選べなかったこと、仁川の卒業生の中には、驚くようなこともあったのではないでしょうか。
インタビュー中の長尾様は、気さくな雰囲気で、趣味でされております写真をいくつか見せていただきました。
中でも、飛行機と花火と稲光が同時に移った写真は印象的で、長尾様ご自身も「一生撮れることはないですよ」と嬉しそうに語っておられました。
趣味のウクレレも楽しそうで、インタビューの当日も、ウクレレの練習に通っておられており、卒業後もエンジョイされているのが伝わりました。
長尾様、お忙しい中、快くインタビューを引き受けてくださりありがとうございました。

 


↑飛行機と稲光と花火が同時に撮影されたお写真